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古きをたどって 8


第六節  明治時代の状態

 

     製造の方法と設備

 粘土は羽津村や阿倉川の山林畑地から採掘したものを乾燥し「ロク」(酒屋の仕込樽の古物)の中へ入れ、水で撹拌し、篩で石や不純物を除き、泥漿とし、これを沈殿せしめ、更に素焼の瓶または瓦に盛り上げて吸水と天日で適度まで脱水した。生素地(木型)は粘土を薄く伸ばし木型に張り付け成形し、型を分解して抜き出し、仕上げをする。手捻りのものは小型の「ロクロ」の上で指頭で捻り上げつくる。手廻し轆轤は現在行われている方法は昔からの通りである。

 「サヤ」(鞘とも匣鉢ともいう)作りは粘土をのばし、先ず円形の底を作り桶胴にまいて円形となし。底の取り付けて作る。窯は全部登り窯であり、この窯は導木(最下部)に火入れし、上に向かって一間ごとに左右の両方から松割木を投げ入れて炊き上げていく。

 生素地屋から窯屋に生地を運搬するのは一段ごとに藁を置いて半箱につめ「セタ」というものにのせて天秤棒でになった。明治三十年ごろには桑名から四日市までこうして運んだ。昔の職人は型萬古、轆轤師、画工はみな、三から五年の年季を親方と契約し技術を習得した。その年季の契約は保証人連帯の証文を親方に入れ、若し途中に置いて離職 又は、逃亡した場合は契約の日よりその日までの飯料、衣料の損害を親または保証人で弁償する厳重な契約であって、その修行期間中は随分過酷な労働を強制せられ修業者はこれに耐えて一人前の職人となった者である。品物の販路は製品が主として煎茶器であったから茶の需要の多い信州から関東、北陸と奥羽の南部に売行きがよく京都、大阪以西の地は後僅少であった。

  その頃轆轤師の益田仙吉がこんな歌を作った。

 

   値下げして  買いの少ない温故なら 

     たとや其の日は  桑之烝でも

         ひかんがましだ  仙吉か

 

  如何にも当時の不景気の状況と職人の気質が現れて面白い。また、いつの頃からか萬古焼業界の関係者を萬古屋と呼ぶようになった。明治の末期から大正にかけて橋北は勿論四日市の景気は萬古屋が左右した。殊に北町界隈から南町の花柳界では萬古屋は巾を聞かしておった。

 前に述べたように萬古焼産業は土屋、匣鉢屋、生地屋、窯屋、画工、荷造師、問屋さらに生地屋の部分品を作る下請け等おのおの独立した分業者の集まりであって現今の様な一貫作業の向上は一、二しかなかった。これらの各種業者は組合を結成して景気、不景気で価格が変動する場合これに対応した。

 その中でも生地屋と窯屋の争議は激烈であった。毎年行事のように夏枯れ時には必ずら争った者である。団体の交渉に初まり妥結を見ぬときは最後の切り札荷止めである。一ヶ月、二ヶ月間も全体休業し、窯屋と辛抱比べをしたことも再三であった。その争議の期間中は厳重な罰則を設けたが殆ど違反者は出なかった。また同時に窯屋は問屋にこれとどうようの交渉をして窯の焼成度数の制限、荷止めの行為があった。更にすすんでは生地屋組合で窯を築き、窯屋組合は自宅に生地工場を造り、また問屋事業をするなど持久戦の対抗の武器とした。

 これは生地屋、窯屋、問屋三者の資力の程度が余り差異がなかったことが争議を一層激化せしめたが、また一面こうしたことが萬古焼を発展せしめた一要因であった。

 生産額については何の記録もないので判らないが、明治四十四年度の総生産額を十八万円と計上せられている。

 当時一人前の日当が三十銭前後で貨幣価格に換算して千倍に当たるから一億八千万円ぐらいのものであろう。現在の産額に比較して当時の状態を知ることができる。

 

 参考までに   明治四十年 の 1万円 は 平成十年の 1088万円  

 

 

 

四日市萬古焼の歴史を辿る書物は、それほど多くないと思いますが、それでも書かれていることは、全てが同じではなく、その都度、そうだったのか、と思い至ります。今回の景気の良し悪しによって、生地屋組合、窯屋組合、問屋組合それぞれの思惑が絡み合うことなどの記載は、目の当たりに展開されている如く!でありました。

 

次は、第七節 大正焼

たのしみです。