久しぶりの晴れ間。
夜半は、結構な雨が降り続いていましたし、朝 5時に庭に出た時も雨は降り続けていました。
この土日も雨なのかなあ、と思っていましたらいつの間にか止んでくれて。。。。。
少しは、サッパリしたいなあ、ですよね。
前回まで、「花器展 春らんまん」を、紹介してまいりました。
今回からは、常設展を観ていただきます。
パノラマのように写真を写せるといいのですが・・・・
花器展展示の奥になります。
会館の表側 向かって右の角になります。
ブラインドが降りていますが、両側とも、道路からガラス越しに見えます。
奥に向かって左手の壁にこの年表がパネルで表示。
萬古焼のはじまりー創始者・沼波弄山
萬古焼の誕生は今から270年ほど前に遡ります。
萬古焼は江戸時代の中期の元文年間(1736〜40)に桑名の豪商・沼波弄山(1817〜77)が当時の桑名藩領であった伊勢国朝明郡小向村(おぶけむら)現在の三重郡朝日町小向の名谷(めんたに)に窯を開いたことに始まります。
この弄山のやきものは、作品に「萬古」あるいは「萬古不易」の印を押したため、萬古焼と呼ばれるようになります。
沼波弄山は享保3年に桑名の船頭町に生まれ、通商を五左衛門、諱を重長と言いました。その人柄は「性廉直而能愛人(性廉直にして能く人を愛す)」と伝えられまた幼い頃から茶道に親しむなど教養のある人物であったことが伺われます。
沼波弄山の萬古焼は、京焼の陶工・尾形乾山の釉薬の秘法書を乾山の弟子清吾に懇願して持ち帰ってことにより、その業が進み萬古焼一流の業として世に出たとされています。
このような経緯から、弄山が創業した萬古焼は、京焼きの技術系譜を受け継ぐ地方窯の一つでありながら、創業者で、自ら茶道を嗜むなどの教養人であった沼波弄山の意向が作品の意匠(デザイン)などに反映されています。例えば、赤絵の更紗文様を地紋として構成し、萬古焼独特の文様が施されているものや、当時としては珍しいライオンや象といった海外の動物、和蘭(オランダ)文字といった紅毛趣味を取り入れ図案化し、異国情緒溢れる作品を生み出しました。
また、制作された作品の器種は茶碗や水指、花生などの茶陶から皿類、向付、小鉢といったものまで多岐にわたり、特に盛盞瓶や雪輪鉢といったものは代表的な作品として知られています。
2枚目のパネルは、
四日市萬古の誕生=山中忠左衛門とその発展
大正焼の誕生から現代へ
歴史として書かれています。
パネル 3
主な三重県内関係地
桑名市
朝日町
菰野町
四日市
津
松阪
とそれぞれの焼き物としての名称が記されています。
パネル 4
日本各地の萬古焼
江戸時代から各地に移り、根着いた萬古焼の史跡です。
これも興味深い!!
実際にその地へ出向き焼き物・萬古焼を見たい!!と思っています。
いつか、機会を。
今回は、パネルのご紹介になりました。
続編を、お待ちくださいませ。
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