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今だからこそ24 (八)四日市萬古焼 2


2 山中忠左衛門(1821〜1878)

 庄助窯が信楽風の雑器を作り、教正師が桑名萬古志向の焼物作りをしていた頃、末永(現川原町)の地主であった山中忠左衛門は、本格的有節萬古の陶法による地場産業としての四日市萬古焼の創始を企んでいた。

 忠左衛門は、三重郡八郷村伊坂(現四日市市伊坂町)で文政四年(1821年)に生まれ、末永村の大地主であり、村役であった山中家の養子となった。

忠左衛門は当時人気のあった萬古焼再興の名工森有節の作品に興味を懐き、それを購て愛玩していた。その斬新にして精巧且華麗な融雪の作品は忠左衛門を魅了してはなさなかった。なんとか自らも作陶して有節の様な優品を産み出したいと考えるようになった。

 嘉永六年(1853年)三月かねがね製法の見学に訪れて昵懇の中となっていた教正師の協力を得て阿倉川に窯を築いて有節萬古の研究に本腰を入れる事とした。

 忠左衛門は有節同様小向の名谷山(めんたに)の陶土を取り寄せて研究を重ねた。その成形、彩画、焼成についても色々な試みをしている。だが、なかなか有節の域に達する事は出来なかった。現代の常識で判断すれば、信楽風の四日市の先達はともあれ、有節を真似て澤山開業していた桑名萬古に学ぶ方が合理的であると考えられるのに、固く門外不出を守っている有節の陶法を直接知ろうとした事は如何に忠左衛門が有節萬古の真価を識っていたかという事を物語るものである。 

 忠左衛門の有節の秘法探索の模様は真偽取り交ぜ、次のような話として伝えられている。

 忠左衛門は自分の手の者を富田(四日市市東富田)にあった「あづまや」という旅館に止宿させ、物売り、旅人、百姓などに変装させて有節窯に近づけその様子を窺わせた。或る者は提灯の火を借りる振りをして有節家に入り込み、又在る者は有節窯の近くに陣取って窯の煙りの立ち具合を逐一メモしてその窯焚きの法を知ろうとした。

 第一番に必要な事は、窯の構造と規模を知る事である。ある台風の日、夜陰に乗じて有節窯の土塀の下を掘って忍び込み、まんまと窯を写し取ったりしたと言う。まるで小説にでも出て来る産業スパイのような話である。末永村は、三滝川、海蔵川にはさまれた低い土地であるため、雨期には度々水害を受け、田畑の損害は相当なものであった。とは言え、年貢米は仮借なく取立てられ飯米にこと欠く農民の貧困は、地主忠左衛門の頭を痛めていた。

 そんな貧農や、宿場四日市の変革動乱期に当理、収入源を失った旅人相手の人達、政治的に無風であった四日市へ流れ住む人達が溢れようとしていた。末永は東海道にも面しているため、そんな世の中の変貌を直接感じ取る事が出来た。

 東海道を旅する人々相手の、土産物屋としての桑名萬古の流行を見聞きして大きな収入を得ることも可能だと言う目論見も一方にあった。

 この事業を成就する事が、地主である忠左衛門の使命のように思われて来た。忠左衛門の辛苦は止む事なく続いていた。特に有節特有の窯の構造、成形法としてある程度の量産も可能な木型の法、腥臙脂釉(しょうえんじゆう)等による盛絵彩色の法は最も識りたいところであった。中でも木型の方は素人に覚えさせるに容易であり、婦女子にも可能な作業である事と、仕上がりが手綺麗で顧客の人気も高いところから、なんとか知り度いと必死であった。ある時極秘のこの木型の複製を桑名萬古のリーダーである佐藤久米造に有節が依頼した事があり、久米造が苦心の上、その複製を為し得たと言う事実や、木型の一部を、有節が桑名の盆屋に注文したことから秘術が洩れたと言われている。これらの筋から、まんまと木型を手に入れる事ができたものの、秘法は知り得ても技術として体得することは難しいものである。失敗の繰り返しであった。そのために要した出費は莫大なものとなった。二十年になんなんとする試練の積み重ねの上、やっと自信を持って有節風の窯を水車(現浜一色町)に築いたのは、文明開花の押し寄せつつあった明治三年(1870年)のことであった。

 忠左衛門の窯は東海道筋に近かった。忠左衛門は失業者を雇い入れる一方、収入が乏しく困っている人達に土を与え、器具を貸与して成形の法を指導した。家に居て内職の出来るこの呼びかけに応ずる者は多かった。如何にまづい出来の品にも惜しみなく金を渡して、いろいろと注意を与え、技術の進歩を図った。

 一方、本職の陶工に対しては、仮借なきまでに作品の批判をして品質の昴上に努めた。その一例として益田佐造との次の話が残っている。

 益田佐造は、信楽の出身で、先の上島庄助の窯で働いて居たロクロ師であった。明治の初年、三谷に住んで居たが彼の技量を見込んだ忠左衛門は、ロクロによる生地の製作を彼にさせることとした。佐造は、自分のロクロ技術については自信があった。さぞかし、忠左衛門から賞賛を受くるものと信じて作品を持参したところ、忠左衛門は「これでは萬古焼の生地として使う訳にはいかない。帰り途に海蔵川へでも捨てよ。」と言って、何程かの金を与えた。佐造は忠左衛門の指摘が当を得ている為、大いに恥じて、その言葉通り海蔵橋の上から川中にそれを投じて帰り、鋭意改善に努めた。再度、忠左衛門のところに持参したところ、またもや金を与えられて捨てよと言われた。こんな事が五、六度続いて、やっと合格したと言う。無論その期間中、忠左衛門は、益田一家の生活を保障したのである。佐造は、以後、一層ロクロ技の研鑽に努め、ロクロの名工と謳われる様になった。(写真36)

この様な関係は佐造のみに限らなかった。忠左衛門の営利を度外視した萬古焼の品質昂揚の努力は、沢山の名工を生み、育て上げた。木型作りは、実に丁寧なものが多く、決して有節萬古に劣らないほどのものが作れれる様になり、自由気儘に作らせた者の中から、型によらない手捻り作品が生まれた。薄い薄い出来の急須に施された細工のことは、四日市萬古焼にのみある手捻り技と謂える。

山中忠左衛門の項、次回に続来ます。


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