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今だからこそ38(八)四日市萬古焼 8明治期の四日市萬古焼の名工たち


 山中忠左衛門、掘 友直、川村又助ら、先覚の技術奨励の呼びかけに応えて、天分のある者は、その才能を充二分に発揮し、職の無いもの、徒弟の中からも、弛まぬ修練と努力に依って素晴らしい作品を生み出している。

 多分に趣味的な作品が多いとは言え、四日市萬古焼の品質昂上に貢献するところ大であった。

 それらの作品は、近代化を急いでいた明治日本の息吹を感じさせ、明治の気風を窺わせる者であった。

これこそ明治時代の陶芸その物であった。

 明治期に活躍した名工たちを次に記す事とする。

 

「蓮隠居」  渡辺自然斉

 大垣藩士であったが、明治維新後、四日市にやってきて、山中忠左衛門のところに落ち着いた。彼は武士時代から絵の素養があり、特に蓮の絵が得意であった。

 家族の無い彼は、山忠で自由気儘に手捻りで生地作りをした。蓮をアレンジした物であった。

 遺品は極めて少ない。写真28は珍しいその一点である。

 本名は不明であり、作品に自然菴の彫り銘がある。

 

四日市萬古(幕末〜明治)

手捻り蓮急須<高さ6.5cm> 

蓮 隠居 作

 

 

「無眼楽」    岡本城峯

  姓は岡本、名は城峯と言った。尾張犬山の陶工であったが、有節のところへやってきた。5〜7年、有節の所にいた後、

桑名新町に移った。ここで製作中失明したと伝えられる。四日市での伝え話ではもともと鍛冶屋であったが、炭火が目に入って両眼を失ったのち土捻りをはじめたと言う事になっている。川村又助が所持していた無限楽作急須並にコンロの箱に次の様に記されてあった。 

  無限楽は盲人なり、歌曲琴奏を業とす。陶器の製作を好み、萬古の陶土を以って器物を製す。姓は岡本。名は城峯四日市上新町に住す。徳川幕府の士この地に仮寓し、その製品を見、その精巧、技術の優れたるを感賞し、東部に来らんことを勧む、依って終に東部に移住せりと言う。城峯盲人の東部に永住せしは安政文久の頃ならんか、一人娘あり(その頃九歳余り)同伴せしと言う。無眼楽一個の値段通常銀六匁位なりと。

 

 また、一説に娘の名前は菊と言い、お菊の批評のもとに作陶したと言う。お菊は美人で東京の男性に見染められ、無眼楽もお菊とともにその男性のもとに移ったと言う。色々な伝えられて入るが、現存している作品は、人間業とは思えない程の薄作りである。蓋のつまみの宝珠の細工など人々を驚かせる物である。よく観察すると、やっぱり盲人だと感じさせるアンバランスな点がある。それがむしろ味わいとなっているところに無眼楽の声価があったのであろう。土を垂坂山の粘りのある細密な粘土によったればこそと言える。とにかく、今や伝説の人である。遺品も少ない。

 安政三年に没した藤橋勾当と言う人の注文品に「・・・藤橋大人以富士山土作城峯」との箱書きのあるもの在り、箱書きの筆者は誰か、とあれ無眼楽の作陶期の一端を知ることが出来る。作品に無眼楽印あり。(写真29)

写真29  四日市萬古(幕末〜明治)

手捻り急須  無眼楽 作

 

 

 

「萬利軒」  山本利助

 天保十四年(1843年)、四日市川原町に生れた。稼業は陶器屋であった為、子供の頃から焼き物に馴染んでいた。明治の初年には新町に移って、「角利」の屋号の小間物屋を営みながら、手捻りで色々な生地を作り、山中忠左衛門のところへ作品を収めていた。彼は、知人の伊藤豊助、小川半助を山忠に紹介した。この三人は名前に助がついているので、手捻りの名工、四日市の三助と呼ばれる様になった。それも彼らの天性の才能によるものとは言え、それを発見、育ち上げた忠左衛門の慧眼を忘れることは出来ない。利助は京都の文人画家とも親しく、書画もよくしたと言われる。

 その作品は遺っテイル物が少なく、その全容を知る事は出来ない。伝えられるところに依ると、人物造形が得意であったと言う。残念なことに、利助或いは萬利軒の銘のある人形を見た事がない。型萬古の原型を作っていたのではなかろうか。数少ない遺品の中の写真32の急須と挿絵29の徳利は、大胆な造形であり、それより受けるものは彼の名人気質である。明治20年ごろ迄活躍し、大正五年五月、73歳で世を去った。「萬里軒造」の彫銘が作品にある。

 

 

四日市萬古 (明治)

手捻り急須     <高さ8cm>

山本利助 作

 

 

 

 

挿絵 29    四日市萬古 (明治)

手捻り徳利一対    山本利助 作

 

 

 

「晩成堂」   伊藤豊助

 伊藤豊助は、西町の「大須賀屋」と言う旅館の主人であった。号に依ると大器晩成の人であったろうか。努力の人であったと思われる。三助の中では、一番誠実な作品を遺している。作品の範囲は大変広い。特に動物の置物は、彼の成果を高から占めている。(写真31)

 

 

写真31   四日市萬古 (明治)

手捻り仔犬置物<高さ 12cm> 伊藤豊助 作

 

 

彼の一番得意とした動物の陶彫はリアルなものである。目に透明な釉薬を施し、要所要所に彩色し、動物の体毛を一本一本克明に刻んでいる。その迫真の作は当時の人達の賞賛を得た。遣っている作品は虎、犬、鼠、羊、蛇、亀などがある。これを観るに、単なる写実ではなく、親しみと、一種特有の雰囲気を持っている。これは、伊勢出身の異端の画家、曽我蕭白〜伊勢柘植の根付彫刻師 岷江斉に連なる系譜を感じさせる。特に 岷江斉の根付は彼の手本ではなかったろうか。彼は動物の他に手捻りによる急須、土瓶の類を作っている。挿絵30の土瓶は、他の名工に優るとも劣らない出来映えである。ボデーの薄く力強い姿と、玉を喰えた獅子のつまみは逸品である。彼は決して天分に溢れた人では無かったと思う。努力と誠実によって技を磨き上げた人であった。寡作では無かったが遅作の人であったろう。作品には「豊助作」の銘の物が多く、「晩成堂作」「萬古豊助作」の彫銘もある。

 

 

挿絵 30    四日市萬古(明治) 

「手捻り獅子つまみ土瓶」  伊藤豊助 作

 

 

今だからこそ とはじめた在庫無しになった ここばんこの里会館、関連書のデジタル化!!

思いもかけず、漢字に手こずっています。

読めない、書けない、探せない・・・

自分が何年間、日本語と付き合ってきたのか・・・50年前になるが、50年前の更に前の旧漢字、旧仮名遣い、古語などを、現代文にリライトすることなどを仕事にしてきたのに・・・など不甲斐なく思いながら進めています。

しかしこの作業はとても素晴らしい学びになっていますこと、改めて、思い立ったことに感謝。

ただ、時間がかかり過ぎていて、次のやりたいことの機を損なうようで、気がかりになってきました。

しばし 

沈思黙考。

 

 


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