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今だからこそ39 (八)四日市萬古焼8明治期の四日市萬古焼の名工たち2


「圓相舎」   小川半助

 手捻り名工三助の中では、一番遺作品が多い。

ほとんどが煎茶器(急須、湯ざまし、煎茶盌)である。その力強い指跡(指紋)を残す。適格な手捻り技は四日市萬古焼の明治手捻り品の頂点にあるものである。作品の薄い事は無眼楽に匹敵する。彼は下新町で煙草屋をしていた。煙草を刻んでいた彼の指先は器用に動いた。天性のものと煙草刻みより得た習性が合体して四日市萬古焼にのみある手捻り技の極限を示したのである。半助は忠左衛門から「無眼楽」の作品を示され「目の見えない無眼楽老人でさえこんな薄い急須を作ったのだ。」と励まされ、大いに発奮、その技を完成させた。彼は前二者の長所を共に持っていた。天性の才能と数作りによる修練であった。親指の指紋の渦が流れていない者は手捻りに有利だと言われている。彼の作品は、指紋が実に美しく残っており、規則正しいその指圧の跡の作り出す造形は、並大抵の熟練で生み出されるものではない。「円相舎の狸のつまみ」と言われる彼の急須、土瓶の蓋のつまみは、腹を金彩された狸が腹鼓を打っている姿である。豊助の動物のリアルさはないが、見てほほえましい狸となっている。(写真30)(挿絵31)

 

 

写真30

四日市萬古(明治)  t

手捻り狸摘み土瓶  小川半助作

 

 

 

 

 

挿絵31   四日市萬古「手捻り狸つまみ急須」

       小川半助作(明治) 左 銘印

 

 

この狸つまみ」は、彼の得意のもので一番人気があった。他に香炉、水注等の作品も遺っている。

 

彼は、本業であるタバコが「えんそう」と読めるところから「円相舎」と号した。他に「子誠」の名も以っていた。ほとんどの作品は、「円相舎作」「円相舎造」と彫銘、格別の大作、或いは自信作には「泗水円相舎主人子誠造」等と彫ったものがあり、小品、数物には「子誠」の印のみのものもある。彼の人気による需要が多かったので、彼の娘「可久」その夫「二代円相舎」も手捻りの仕事をした。特に「可久」は土瓶も総銀彩したものを作っている。

 小川半助は、明治38年、66歳で歿した。

 

 

「日出野」 伊達嘉助

 伊達嘉助は、鳥居町の人である。四日市萬古焼の中では古い方で、明治の初年、山中忠左衛門、堀友直に続いて開窯している。明治初年に来日して日本の陶磁器を蒐集研究したアメリカ人・エドワード・シルベスター・モースが、1900年に刊行した大著「日本陶器目録」に次のように登場する。「1865年(慶応元年)、嘉助と呼ぶ陶工、手造りの萬古を作る。蓮の萼、草花及び木葉の形をせし煙草盆を出す。中に釉を施したるものもあり、作品の形造りに才能凡ならざるを示すも特に称しがたし。」とある。この記載に該当する作品が無いので、判断が大変難しい。モースは銘印として「萬古」と「日出野」を掲載している。四日市に伝えられるところに依ると人物造りに秀でていたと言う。挿絵32は「日出野」の書印がある。

ちょっと博多人形を思わせる作品である。また写真35は木製による急須である。金彩を少しほどこしただけの上品な作柄である。彼は、巴里万国博にて受賞。尚、明治以前、阿倉川で開窯した藤井元七窯の「ひでの」とは別物であることを附言する。

 嘉助は、明治32年5月、54歳で没した。

 

 

 

挿絵32  四日市萬古『琴高仙人香炉」

      伊達嘉助 作 (明治)

 

 

 

 

写真35   四日市萬古(明治)

    木型作り波濤文急須<高さ8cm>

    伊達嘉助 作


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