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今だからこそ44  10大正焼の発展    


 

 

 

 大正焼を水谷寅次郎が発明した頃、寅次郎のところによく出入りしていた宮田冨吉、伊藤嘉太郎、内山小太郎の3人は、鳥居長の薪炭会社内に試験室を築いて、大正焼の研究をした。宮田冨吉と伊藤嘉太郎は、雲州写しと称して売り出した。黄色で、質が脆く壊れ易く、釉薬に嵌入や、吹きの出る当初の大正焼に満足せず、宮田冨吉と伊藤嘉太郎は木節、珪石を減じ、対州陶石と三石蝋石を加える事で色を白くし、生地、彩画に特に留意して泗水焼と称して売り出した。

 当時大正焼について可否両論があった。だが、従来からの四日市萬古焼の赤いもの、ねずみ色の物に比べ多少黄味はあるが、白く上がった釉裏の彩画は、美しく感じられた。

 しかも、四日市港を控えているため、石炭は有利に入る事、工程が簡易でコストが低く産出し得ることは大へんな魅力であった。事実、製品の売れ行きも上々であった。そのため、ぞくぞくと石炭窯に切り換えたり、新設する者が表れたのである。

 この松割木を石炭に代える事で燃料費が節約される石炭窯の発明に加うるに、動力を利用した機械ロクロ、石膏型による流し込みの成形法が入ってきたため、生産は飛躍的に上昇した。

 石炭窯の発明者寅次郎は、技術を積極的に指導して公開したが、これを受けた窯屋は容易にその要領を習得し得なかった。また業者間は新規の者に冷たく、難儀した者も多かった。それについてこんな話が残っている。

 窯の火入れをする前に、予め工場敷地内に穴を掘って置き、失敗した焼損品を人に見られないように直ぐ、そっと埋める準備をした。という事である。当初の黄色で貫入や、吹きの出る大正焼から、泗水焼との中間色で陥入のない者が焼成できるようになったのは、昭和に入ってからであった。当時は素焼きは別の窯で焼いていた。機械ロクロは大正5年ごろ足踏みロクロがはいってきたのが始まりで、大正7、8年頃から動力による機械ロクロとなって火鉢、水盤等の大物を量産し得る事となった。 

 石膏型による流し込みの方は、大正3年ごろ、寅次郎が不完全ながら石膏型を作り、鋳込みの土に色々と苦心をした揚句、「水分の少ない硬い土を硅曹で軟げる」ことを発見成功するのに半年もかかったと言う話があるが、一般的には、大正5年水車町の東山金次郎が名古屋の製陶工場に勤めて習得し、原料の一部を持ち帰り、水車町の辻本万造方の秘密工場で土瓶の石膏型による鋳込みに成功したのが、創りと言う事になっている。

 

 大正焼の原料は下記のような移入品である。

1、木節粘土  瀬戸市、美濃(東濃各地)、三河(猿投)

        伊賀(上野島ヶ原)

2、珪  石  瀬戸市、美濃(東濃各地)  

3、長  石  福島県、滋賀県三雲、石山、岡山県笠岡 

4、陶  石  山形県大峠、石川県鍋谷、岐阜県白鳥 

5、磁  石  長崎県対島     

6、その他   各地区より(朝鮮よりも)  

 これらを調合して使用した。製土も手漉しから圧搾機械によって行うようになり、さらに厘鉢も手造りからプレス製となった。

 石炭窯の登場と軌を一にして動力による機械ロクロ、圧搾機械等が使われる様になったが、四日市萬古焼は瀬戸、美濃に比べ機械化が遅れていたものが、僅かの間にその水準に達し得たのには原因があった。

 関西鉄道の工場が明治20年代に四日市にあり、四日市の鉄工技術はこの地方では最も進んでいた。高砂町の三重鉄工所は、日本陶器、名古屋製陶などへ早くから機械ロクロや窯業機械を製作して納入していた。この三重鉄工所の経験ある職人が独立して市内に工場を開いていた。そこへ四日市萬古焼の業者から注文して作らせ、またたく間に機械化は進んだのである。

 

 大正時代は四日市萬古焼にとって、まさに産業革命期であった。

 

 大正焼の最初の頃の製品は従来の四日市萬古焼をそのまま移した。ロクロ製の土瓶、急須、湯呑、煎茶三ツ揃、蓋物等であった。大量生産方式による大正焼の出現により、旧来の輸出向萬古焼はかげをひそめ、大正焼と交替した。

 とは言え、大正12年頃では輸出はまだ少なく、全産出の20%程度であった。従来からの赤土を主とする登窯の製品は大正焼に圧倒されて、単に美術工芸品的存在となり、一般製品の埒外になった仕舞った。貫入や吹きによるクレームも多かったが、それを廉価で応える業者も多かったら。当然のように粗製乱造となり、大正焼の悪評は広まった。当時は科学知識の程度も低く、この欠点を改良するには焼成技術の進歩によって徐々に改良されるのを待たなければならなかった。

 軌道に乗ってからの大正焼の製品は蓋物、湯呑み、花生け、灰皿、サイダー呑み、急須、煎茶器、番茶器などの小物のほか火鉢、水盤、大型土瓶などの大物に及んだ。特に、火ばちは火ばちの主生産地であった四国の砥部焼、九州の有田焼をしのぎ独占する程になった。

 大正焼の普及発展とともに、次の二つの現象が表れた。その一つは、機械ロクロ、石膏型鋳込みの法に転換してきた四日市萬古焼へ、その技術の先輩である美濃、瀬戸方面から多数の陶工が移住してきた事である。石膏型の需要増大に伴い、型屋と言う専業者が現れた。その人達も外来出会って、一時は外来者の天下になるのではないかとも思われた。

 また、末永、川原町、浜一色一帯は低地であるため、田圃に水が入ると、窯に水分が回り、完全な焼き上げがこんなんであり、阿倉川地区に多かった生地屋(ロクロ師)が機械ロクロを設備し、又、石膏鋳込み専門の生地屋も生まれる等の原因から阿倉川に窯屋が次々と移り、発足した。大正末年には四日市萬古焼の中心が、川原町から阿倉川に移っていったのである。

  

 四日市萬古焼は大きく変貌した。

 

大正7、8年には大正焼専門の土屋も現れ、釉薬も京都の日本陶料会社において、比較的安全な者が作られる様になり、築窯にも窯の神様と言われた森太郎右衛門のような専門技術者の活躍があった。

 それより前、大正5年に阿倉川の生地屋組合が、業者の結束と複利増進のため阿倉川信用購買組合を結成して組合員の金融、生活必需品の購買を行っていた。大正11年に阿倉川の大正焼窯屋十数軒が匿名組合東窯会を作り、石炭、釉薬、陶土等絵具等の共同仕入れを始めた。この東窯会は前記信用組合に合併して四日市煉瓦会社跡の敷地を買収し、厘鉢工場を作り、後に陶土の製造を大規模に開始した。これは生地屋と窯屋の合同の事業で、永らく斗争していた両業者が握手したのである。まさに時代の推移と言うべきである。

 ところがその後、工業組合が設立され、共同製土工場を作ったため、暫くは対立の形となった。信用組合法は元々農村の機関であった。農業協同組合法の制定に従い海蔵農業協同組合に転身して、その事業である製土と厘鉢の製造を萬古陶土株式会社に移したのである。この外に、大正8年に合資会社川村組が硬質陶器タイルの生産を始めた。また、大正末年には川原町の伊藤嘉太郎は同志と共同して泗水タイル会社を設立して建築用タイルを製造し、阿倉川の木村周太郎はモザイクタイルの製造を開始している。

 本格的硬質陶器の製造は大規模の設備のある工場が当時全国に数社生産していただけであった。本格的硬質陶器は工場の規模、設備、技術の点で旧来の小規模業者では生産が困難であった。これに着目した阿倉川の山本益次郎は、大正焼製造の傍ら、その研究を続け、昭和2年ごろ、成果を得て発足する事になるのである。

 

 このように、生々発展していた四日市萬古焼も大正10年9月25日の大暴風による被害は甚大で、再起不能の業者も出た程であった。

  

 また、大正12年9月の関東大震災では、人心の動揺と輸送途絶のため、その安定を得るまで、全業者は店を閉じていた。この時の滞荷も鉄道の開通により短時日の間に一掃することができた。その時の売れ行きは大変なものであったと言う。

 

 大正焼によって急激に上昇した四日市萬古焼の生産高は大正10年ごろまでは上昇一方で、年額百三十万円に達したのであるが、大正末年には停滞の兆しが表れていた。昭和元年のデーターによると、三重県陶磁器工業生産額は、全国の4・4%となっており、愛知、岐阜にははるかに及ばなかったが、京都 5・9%、佐賀 4・7%に続く全国有数の陶磁器工業地となったのは、大正時代の四日市萬古焼の発展によるものであった。

 

 大正焼の出現によって、斜陽となった旧来からの四日市萬古焼の中で、働いていた陶工達のことを少し書いてみよう。彼らは苦しい徒弟制度によって仕込まれ、腕が上達してやっと一人前になった頃、転換期に遭遇した。その中にはいろいろなタイプの者がいた。もともと家が裕福であるか、格別の才能のある者は、個人陶芸家の道を選んだ。そうでないものは大正焼の中に引き込まれ、粗雑な量産に手を貸し、本来の技術を忘れて行った。また利口な者の中には、企業家に転向して成功する例もあった。それらの腕のある投稿は、名人気取りを身上としている者が多かった。中には酒や女に身を持ち崩すものがあり、酒のためにのみ仕事をすると言う人もあった。いつも三滝川の堤防に酔いどれが一、二人転がっていたと言う。彼らの台所は常に火の車であった。家賃の滞納のため家主が立腹して片屋根を、取毀し、困惑して、窯屋に泣き付き、窯屋の肝入りで復元してもらったと言う笑い話が残っている。そんなくるしい懐具合にもかかわらず、彼らは自由で明るかった。明治末から大正にかけて浪曲が大流行したことがある。吉田奈良丸、桃中軒雲右衛門の人気は大したものであった。川原町ののど自慢陶工の中に「半鐘軒政右衛門」の珍名(それぞれ、その言動、行為、職種をもじっている)で興行して廻った者がいた。実に愉快な話ではないか。         よき時代でもあったのである。

 

 

 

  

 

 


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