大正末期の状態
大正十年ごろはまだ輸出品の額も僅少であって、内地向き八割五分、輸出向き一割五分の程度出会った。大正年代になると萬古焼初期における工芸的製品は最早一般製品の埒外となり骨董品的存在である。この時代には内地向き品の販売もいよいよ拡張し、内地は隈なく行き渡り、朝鮮・台湾・中国まで及んだ。製品においても大正焼の持つ特徴を生かし、大物の製造に成功した。即ち火鉢、水盤、大型土瓶等であって土瓶は一時、全国陶産地の第一位を占め、また水盤は全国に競争品なく独占的であった。その他蓋物・湯呑み・掛け花・灰皿・サイダー呑み・急須・煎茶器・番茶器等である。
旧萬古焼の製品は急須・型土瓶・煎茶器・湯呑み等で、大正年代の末には大正焼とその位置を転倒した。
大正十年(1921年)九月二十五日に大暴風雨があり業者は大きな被害を受けて、中には再起不能の者も出たほどである。
大正十二年(1923年)九月の関東大震災では人心の動揺と輸送が途絶えて一時は全機能を停止したが、輸送回復によってその後一年余り好景気であった。
第八節 萬古焼の原料
陶祖弄山から有節、そして桑名萬古、初期の四日市萬古と一連の萬古焼原料は桑名方面は朝日町の小向、縄生の丘地から採掘し、四日市方面は羽津村東阿倉川の台地の原土(粘土)を水簸し、單味の陶土であった。当時の製品は次の四種に分かれていた。
一、赤土(無釉)
この原料は瓦及び土器並びにレンガに使用する赤色・青色の粘着力の強い鉄分を多量含有する当地方に広く産する普通の粘土である。これを酸化焔で焼くと赤くなり、還元園で焼くと黒くなる。
二、白土(無釉)
桑名方面は小向村の谷山のもの、四日市方面はたる酒屋まで採掘製土した。この原料は灰白色で粘力強く鉄分も少なく当地方稀に見る一種独特の粘土であったが、明治四十年ごろには礦脈が絶えてこの種の萬古焼は消滅した。白土製品は初期の輸出向け品と内地向きの高級品に使用され、無釉にて錦窯で彩画された雅味豊かなものである。
三、薬掛土(施釉)
この製品は白土萬古の消滅する前後に始まり、主として登窯の火前用として一般大衆向き製品に使用された。素地は粗悪で下絵物が多い。これに用うる釉薬は石薬、並薬、栗皮等である。この原料はほとんど瀬戸、美濃方面から移入し、一部当地の原料を混入したことがある。
四、大正焼、皇室陶器の原料
1、木節粘土 瀬戸市、岐阜県東濃、三河猿投、伊賀上野、島ヶ原
2、硅 石 瀬戸市、岐阜東濃
3、長 石 福島県、滋賀県三雲、石山、岡山県笠岡
4、陶 石 山形県大峠、石川県鍋谷、岐阜県白鳥
5、磁 土 長崎県対馬
6、その他 各地より移入
戦前には朝鮮の原料を移入した。初期において業者の最も苦心したのは白色の原料と耐火物の入手であった。当地唯一の原料は多度村の猪飼の硅石であった。
窯および窯道具の原料に悩み、この地方の至る所の原料を採掘試験した結果、
羽津村の大谷砂 (硅石質フリ粉用)
阿倉川の庚申山の粘土 (窯道具用)
朝明川の砂 (潮汐の代用)
御館の粘土 (窯道具増量用)
菰野および藤原が獄のギチ(白色生地用)
垂坂山の砂 (硅石質フリ粉用)
その他 多数研究せられたが、いずれも不結果であった。
海蔵信用組合
大正五年に阿倉川の生地屋組合で業者の結束を固めると共に組合員の福利増進を図るため、阿倉川信用購買組合を組織し、金融と米・麦・味噌・醤油等生活必需品の購買を行った。その後、大正十一年に阿倉川の大正焼窯元十数軒で匿名組合東窯会を作り、業者の使用する石炭、釉薬、陶土、絵の具等の共同仕入れをはじめ、前記の信用組合に合併して四日市煉化会社の敷地に匣鉢と、後に陶土の製造を大規模に開始した。これは生素地屋と窯屋の合同事業で永らく闘争を続けた業者がはじめて握手したわけである。時代がそうさせたのであろう。