W&S 100Bloger発掘プロジェクト
Skip to content

古きをたどって 9


第七節  大正焼

 

大正焼

日露戦争を契機に我が国は飛躍的に発展し、国民の生活様式も変わってきて、萬古焼も従来の製品では何かと行き詰まりを感じて来た。

 鳥居町の水谷寅次郎は早くもこのことに着眼し、数年に及ぶ苦心研究の結果大正元年に至って大正焼と称する一種の陶器を発明した。

 これは英国の硬質陶器を目標としてその類似品である淡路「オノコロ焼」と薩摩焼及び雲州焼を研究し、さらに琉球にまで渡り、彼の他の陶器の製法を調べる等、想像以上の苦心を続けたが、その焼成窯が従来の登窯(薪窯)であったため予期の成果が得られず、今度は窯の改良に志し当時業界の権威者であった名古屋の松村八次郎氏に懇請して石炭窯の図面を譲りうけ自宅にこれを築いて研究を続けた。

 この窯こそ四日市における石炭窯の元祖で、その時は明治四十四年(1911年)であった。

 大正元年(1912年)に至り、漸く成功の域に達し、実兄の中島伊三郎に商品として清算せしめたが完全な製品ではなかった。その当時、水谷寅次郎と親交のあった宮田冨吉と伊藤嘉太郎・内山小太郎の三人は鳥居町の薪炭会社内に試験窯を築き、水谷寅次郎指導の元に共同して研究し、成案を得て、宮田冨吉と伊藤嘉太郎は独立して自宅に窯を築き、本格的生産をはじめ他のが大正焼の起りである。大正焼の名は発明者の水谷寅次郎が命名した。

 最初の頃の大正焼は黄色いもので、非常に質が弱く壊れ易い。また釉薬に嵌入が生じ、時には釉薬が吹いて器物として使用に耐えないものが多くできた。それが誰にでも完全に焼成するようぬなったのは、発明後十五年の昭和の初年からである。

 最初の製品を森欽商店が雲州写と称して売り出したことによっても想像が出来るほど黄色い者であった。宮田冨吉と伊藤嘉太郎はその原料を精選し、素地彩画にも特に留意して白色の物を作り泗水やと称して売り出したが、いつと話に大正焼と混同し、その中間の色合いに当る今の大正焼が出来たのである。

 当時業界は大正焼を評して可否の両論があった。その中には、こんなものは萬古焼の堕落である。数年ならずして消滅すると極言した者もあるほどで、誰が今日の隆盛を予想したであろう。

 然し大正焼の発明は業界に一大衝撃を与え、当時は不況の中でもあり、窯業者は続々これに転向し、また新規の業者も生まれ、商人も販路の開拓に意を注いだ。市場でも真新しい陶器として歓迎せられた。さりながら、これらの製造業者は、いずれも研究費と設備の為に全財産を投入し、その完成に向って精魂の限りを盡して来たもので、その技術は極秘とし、絶対に公開しなかった。そのため新規の業者は技術の習得に非常な苦心と犠牲を払った。大正四、五年ごろまでに、開業したものは特にその犠牲が大きく、それについてこんな実話もある。

 窯の火入れをする前に予め工場敷地内に穴をほっておく。これは失敗した焼損品を人に見られることを恥じて直ちに埋めてしまうのである。こんなことは今の新しい業者の想像も及ばないことである。

 最初のころの生地は全部手轆轤で作り、今の赤土急須のように削ってから磨きを掛けた土瓶・蓋物・急須・湯呑の類出会った。

 また陶土は各自が原料をおもいおもいに配合し、手濾しで造り、釉薬も同様各自に調合し、挽臼にかけて分子を微細化した。

 大正七、八年ごろになると一部に機械力を応用することが始まり、機械轆轤を瀬戸や美濃から移入し、流し込みの方法も伝わり、それに関連して石膏型も使用するようになって生産の規模が一変してきた。

 

 一、原料は従来この地で採掘した単味の粘土であったものが、各地から移入する調合原料となった。

 二、手工業から機械轆轤と変わり、製土も手濾しから圧搾機械隣、匣鉢も手造りからブレス製となり、新たに流し込みの製法がはじまる。

 三、松割木を燃料とする登窯から石炭を燃料とする倒焰式の炭窯となってきた。

 

 この機械化は時勢の進歩でもあるが、次のような特殊な事情もあった。

 昔、高砂町に三重鉄工所(後に中央鉄工所)という工場があった。明治30年代から40年代にかけて、名古屋の日本陶器、名古屋製陶等の大会社で使用する機械轆轤やその他の窯業機械はまなこの工場の製品であった。四日市は関西鉄道の工場があって鉄工技術に関しては、はるかに名古屋より進んでいたので四日市から名古屋に送っていた。

 そこへ四日市の萬古焼に機械轆轤をを使用するようになって、急速に殆どの全工場に普及した。その裏には、三重鉄工所の職工であった者などが市内の各所に町工場を経営していて、皆窯業機械の熟練経験工である関係上、わけなくこれを作り、萬古業者に進めたことが大きな原因となっている。四日市は美濃や瀬戸に比較して機械化が五年も遅れていたものが、忽ちその水準に達し、更にこれを凌駕したことは萬古焼業者の力にも夜が、この鉄工技術者の存在を見逃すことは出来ない。

 地方産業の発展にも、こうした業者の相互の関係も必要なことである。

 大正焼が生まれ、量産の必要から工場が機械化してくると機械轆轤工と型師が岐阜県や瀬戸方面から続々と移住が始まり、その関係工員はこの移住者によって充たされ、土地の青少年はこれ等の人々から技術を習得した。

 大正焼の出現によって萬古の輸出向品にも大きく変化が来た。即ちその頃までの輸出品は指頭の芸術品であって量産が不可能であったが、工場の機械化と製品の簡易化は大量生産の方式となり、旧来の輸出向品は忽ち消滅し、大正焼一本となって今日まで順調に発展してきた。

 

 

 

色々、電話や、ご来客の対応の合間をぬってではありますが、今日の項は、グランマには、初めて知ることが多く、興味津々でした。今更ながらですが、地域力を考えたいなとかとか。