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四日市はお祭りです。
いまごろ、街中太鼓やお囃子で大賑わい。
グランマの会社はそのお祭りのメインイベント会場になっている地点から
300メートルほど 海よりに下がったところに位置しています。
当然のように、昨夜から会社の前の通りは車両通行止め!!
会社の地下駐車場に入るにもいつものようには入れません。
毎年のことだし、グランマはお祭りが好きな人間なので致し方なしと
それよりも、こんなに人通りが多いことは念に一回のこと、
前の歩道は4メーターあるし、カキ氷屋さんでもやりたいなあ・・・なんてね(笑い)
さてさて 学びの続編です。
上の写真が『ばんこの里会館 』資料コーナーのボードです。
文人趣味から産業へ
再興萬古
桑名萬古
有節の考案した木型成形の急須はよく売れた。
その秘密にしていた陶法が桑名の木型師 佐藤久米造に漏れると、それを模倣追随した
たくさんの有節亜流の陶芸家が桑名周辺に現れて売り出した。
中には 有節萬古と一味違った たたみ作り、土型成形の精巧なものを作る者がいた。
布山,孫三郎らである。幕末から明治にかけて最も、盛業であった。
射和萬古
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古萬古の沼波家の姻戚にあたる南勢射和の経世家 竹川竹斎が、安政三年(1886)に
射和萬古を開窯した。
彼は有節萬古の成功に眼をつけて、殖産事業にしようと、資力を注ぎ、
井出吉六、奥田弥助、近藤勇、服部閑何鵞らの名工を雇い入れての陶業であった。
だが 製品は優れていたが 格別の特色がないために、目論見通りに捌けず
7年で廃窯になった。
阿漕焼
古萬古の陶工 良介(浪々瑞牙)が、津の籐堂藩に招かれ、安東の地で古萬古の姉妹品に
「古安東」を産み出したが、わずかで廃業した。
これを惜しんだ津の倉田久八が「再興安東」を始めたのは、嘉永六年(1853)のことである。
射和萬古の陶長もした信楽の陶工上島弥兵衛の協力を得た
代々のちに「阿漕焼」と改名し、窯主が変わって現在に至る。
いよいよ、産業としての遺産に近づいてきてきた感じ・・・・・
ワクワクであります。
本日の学びの中でも 知らないことばかり。
更に 深く調べていきますが、歴史をストップさせるわけにはいきませんので
進行具合はこんな塩梅で!!
グランマ 数馬