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四日市ばんこ焼 歴史を学ぶ グランマ数馬メモ10


26ランチ

夏ですね (^O^)

 

 

 

久しぶりに にじいろ堂さんのランチにありつけましたアップ

 

 

 

それも、待ち合わせをして 二人ランチです。

 

 

 

お相手はグランマがグランマではなく ママとして営んでいる mamav のヘビーなお客様です。

 

 

 

犬連れ とも言えるかも???

 

 

 

とにかく、気心の知れた方とランチでした。

 

 

 

けっこうハードスケジュールであるし、ヴィヴィアンとエムが常に一緒の私、

 

 

 

(ヴィヴィアンとエムは私の家族のわんこたちの名です。)

 

 

 

どなたかと、ランチなんて 本当にめずらしく・・・・・・もしかすると、初めてかも???

 

 

 

 

写真を写す前に一スプーンいれてしまいましたが、マイルドなカレーでした。

 

 

 

 
 
26デザート

デザートは、ドラゴンフルーツトッピングシャーベットビックリマーク

 

 

 

 

 

チャンプルすると シャーベットがピンクになり、ドラゴンなるもの、初めてのグランマはワ~ワ~いいながらいただきましたああああああ。

 

 

 

ご馳走様でした。きょうも美味しくいただきました。

 

 

 

 

有節萬古・銘印

 

 

 

 

几帳面な有節は、自身で銘印を刻んだと伝えられる。素人ながら印は完璧である。

 

 

 

古萬古の印を踏襲「萬古不易」丸型篆書の「萬古」があるが、字体が優しい。

 

 

 

普通の 萬古印は裸印は少なく中型の小判印を多用し、「摘山」 「有節」 「萬古不易」があり、

 

 

 

「日本有節」の印は海外への発展を希求したものである。

 

 

 

千秋には、別種の印がある。

 

 

 

 

ここで 森 有節について少しお勉強です。

 

 

 

 

1808年(文化5年)、1882年(明治15年)4月25日

 

 

江戸末期の萬古焼の陶工職人家。

 

 

萬古焼中興の祖。

 

 

本名は予五左衛門。   号は 摘山堂。

 

 

伊勢国桑名(現在の桑名市田町)

 

 

江戸初期は「松本屋」という古物商を営む。

 

 

沼波弄山の遠縁に当たる山田彦右衛門からすすめられ、古い萬古焼発祥の

 

 

朝日小向で、有節の弟、与平(本名 千秋、号は陽楓軒)と共に、

 

 

江戸時代 後期の1831年(天保2年)に萬古焼を再興。(有節 23歳ですね。)

 

 

有節萬古焼、朝日萬古焼と呼ばれ、古い萬古焼製品と同様、名谷山の白土と赤土を使い

 

 

古萬古を、模写いた。

 

 

 

時代の流れに合わせて、煎茶器に生産の主流を変え

 

 

 

 

上絵付も、硬彩から軟彩へ変わり、粉彩・十錦手の上絵釉は艶やかで、

 

 

 

金を原料とする鮮やかな桜色の 森 有節 独特のピンク色の発色の開発にも

成功した。

 

 

 

また急須や、土瓶は、木型を使った成形に特殊な木型を使用し、

 

 

 

ある一定の大量生産を可能とし、薄作りや、蓋の摘みのつくりにも新風を取り入れ、

 

 

 

庶民など町人などの間で人気を博した。

 

 

 

1867年(慶応3年)国産陶器職取締役を任命された。

 

 

1882年(明治15年)4月25日に没す。享年 75歳。

 

 

 

とありました。

 

 

 

ひとつの歴史を、事物からたどり、登場人物を、個人史でたどると、

 

 

 

色合いがまし、息吹を感じるようになってきます・・・

 

 

なんでもそうですが、全体を大きく俯瞰し、

 

 

部分に近づいて 細部をたどると、

 

 

2次元のものが、3次元に感じるようになってきますね。

 

 

このように、高校時代に歴史の勉強をしていたら・・・・・なあんてね

 

 

そうです。

 

 

今からでも、何かを認識するときにこのように立体化できるくらいに

 

 

繰り返し重ねていくことですよね。

 

 

まるでミルフィーユ作りのようではありませんかチョキ

 

 

 

 

 

とても 夏 です。

 

 

皆様、おいといくださいますよう。

 

 

ばんこグランマ 数馬 桂子

 

 

 

 


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